光で世界の闇を照らす⇒黒い貴族
東地中海岸(レバノン付近)で
紀元前20~8世紀にかけて海上貿易に活躍したセム語族の一つ。フェニキア人とい言われた民族がいた。今から4000年も前のことです。
アルファベットのもととなったフェニキア文字をつくった。地中海世界でカルタゴなどの多くの植民市を建設した。
ポエニ(フェニキァ人)とローマ帝国の戦争は、
前3世紀中頃までにイタリア半島の統一戦争を終えたローマが、カルタゴから西地中海の海上支配権を奪うことを目的とした征服戦争で、直接的にはシチリア島でカルタゴと対立していたシラクサがローマの援軍を要請したことから起こった。
前264年~前241年の第1回ポエニ戦争ではシチリア島が主な戦場となり、ローマが勝利し、シチリアを占領し最初の属州とした。さらにサルデーニャ、コルシカを奪われたカルタゴは対抗してイベリア半島に進出した。
前218年からの第2回ポエニ戦争はカルタゴのハンニバルがイタリア半島のローマ本土に侵入して脅かし、前216年のカンネーの戦いでは大勝した。しかしカルタゴ軍がイタリア半島で停滞するうちに、ローマは将軍スキピオの指揮によって逆襲し、前202年のカルタゴの近郊ザマの戦いでハンニバル軍を破り、カルタゴは再び敗北した。カルタゴの殲滅を狙ったローマは、この戦いと並行してマケドニア戦争でギリシアを制圧した。
前149年からの第3回ポエニ戦争は、ローマ軍が北アフリカに上陸してカルタゴを包囲、前146年に最終的にカルタゴを滅ぼして破壊し、ポエニ戦争は終結した。
この戦争で敗れたポエニ(フェニキア人)は滅び、離散した。
彼らの植民地だったチェニジアには生贄を捧げる祭壇があると言う。
つまり、彼らは悪魔崇拝主義者。
そもそも、ポエニは自らを名乗らなかったし、彼らを指すのに「海の人」又は「フェニキア(貝殻から取った紫の染料を扱う商人を意味した)と言った。
(↑地図はポエニ戦争を表す)
ポエニ戦争で離散したフェニキア人は、イタリアのベネチアへ或いはハザール(ウクライナの東)へ移住しハザール国の中で、地中海の貿易で育んだ商才を発揮して、国を発展させた。
そして、ハザール国の支配者層が9世紀頃に「ユダヤ教」を取り入れ、奴隷に至るまで、全ての人民にユダヤ教徒になる事を決定した。
そして『タルムード』(紀元前586年前後から紀元後1040年迄の間に、バビロニアでユダヤの律法学者がつくった)を信奉した。
それがアシュケナジーユダヤの起源となった。
だから、アシュケナジーユダヤは白人系であり、自称「ユダヤ」なのです。
(ユダ王国は中東にあり、本来のユダヤ人は黄色人種です。つまり「フェニキア人が、ハザール国を乗っ取った」ってことですね。)
しかし、繫栄していたハザール王国は滅亡へと向かってしまった。
10世紀に弱体化し、キエフ・ルーシ(現在のロシア・ウクライナの起源)や、ペチェネグなどの遊牧部族の脅威にさらされた。
決定的な転換点は、965年、キエフ・ルーシの支配者スヴャトスラフ1世が遠征軍を率い、ハザールの要塞都市サルケルと首都イティルを攻撃・制圧した。
滅亡後、ハザール人の多くはロシア正教に改宗したが、一部はユダヤ教を維持したまま、他の地域に吸収された。
この王国はユダヤ教を受容した遊牧国家として知られ、その崩壊は東欧・南ロシアの勢力図がトルコ系からスラヴ系主導へと大きく転換する契機となりました。
記録上最初にフランクフルトにユダヤ人の存在が確認されるのは1150年頃である。
13世紀中には神聖ローマ帝国のユダヤ人は「王庫の従属民」たる法的地位を確立し、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在となった。ユダヤ人は皇帝の保護を受ける代わりに皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。ユダヤ人は皇帝の収入の大きな部分を占める重要な「私有財産」だった。しかし王庫の金が尽きるとしばしばユダヤ人税徴税権が担保・抵当に出された。フランクフルト・ユダヤ人への徴税権も皇帝カール4世が1372年にフランクフルト市に売却している。
フランクフルト・ユダヤ人はゲットーが創設されるまでは、市内の聖バルトロメウス大聖堂(ドイツ語版)の南にあるマイン河畔にある地区(ここにはザクセンハウゼン地区(ドイツ語版)に通じる橋がかかる)に固まって暮らしていた。このユダヤ人街は後に作られるゲットーと異なり、ユダヤ人たちが自ら形成し(ここで暮らす義務はなかった)、また非ユダヤ人の市民もユダヤ人街で一緒に暮らしていた。
1348年から1349年にかけてヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲われた。ユダヤ人の死亡率が低かったことなどから「ユダヤ人が井戸に毒をまいた」というデマがヨーロッパ中に急速に広まり、ヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国(ドイツ)においてユダヤ人虐殺が吹き荒れた。
フランクフルトでも黒死病の伝染が始まるとともに、鞭打苦行者の集団がマイン川上流から現れ、フランクフルト市内のユダヤ人街を襲撃した。フランクフルト市民が彼らを撃退したが、結局ユダヤ人街は放火され、虐殺され、フランクフルト・ユダヤ人は再び壊滅した。
1360年より再度ユダヤ人がフランクフルトへ移住することが認められ、大聖堂南のユダヤ人街やユダヤ人団体が再建された。しかし黒死病後のユダヤ人の立場は完全に悪化していた。ユダヤ人はもはや市民台帳に記載されなくなり、別の台帳に記載され、様々な制限を課せられるようになった。
なぜ、彼等は周りから嫌われて迫害されるのか?
彼等は、ユダヤ教の『タルムード』を教義としているからです。
そして、これが第十三支族と言われるようになったのです。つまり、ユダヤ人では無いユダヤ人。
十二支族にプラスされた、ユダヤ民族ではない、自称ユダヤの誕生。。それが十三支族です。
(『ユダヤあとは誰か?』アーサー・ケストラー著より)
1. ヴェネツィアのゲットー(↑写真。歴史的事実)
ヴェネツィアは「ゲットー」という言葉の語源となった都市です。
1516年、ヴェネツィア共和国は市内のユダヤ人を特定の区域に強制居住させることを決定しました。
もともと鋳造所(イタリア語で「geto(ジェト)」)があった場所が指定されたため、そこが「ゲットー」と呼ばれるようになりました。ヴェネツィアのゲットーは16世紀初頭に確立したものでヨーロッパ最古とされています。
強制的な隔離という差別的な側面があった一方で、商才に長けたユダヤ人を市内に留めておくための保護・特権的な側面も持ち合わせていました。
2. 黒い貴族(歴史と陰謀論)
「黒い貴族(イタリア語: Nobiltà nera)」には主に二つの意味があります。
歴史的定義: 1870年のイタリア統一後、教皇庁への忠誠を守り、サヴォイア家(イタリア王室)への協力を拒んだローマの貴族たちの総称です。彼らは喪に服す意味で黒い服を着用したためそう呼ばれました。
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黒い貴族は、米国大陸を発見した(?)と言われるコロンブスのスポンサーだった。
だから、南米のベネズエラは(小さなヴェネツィアとうい意味)コロンブスが発見(?)したと言って、彼ら(黒い貴族)が所有権を主張している。
また14~15世紀の西アフリカからの黒人を米国のプランテーションに送り込む奴隷貿易でも資金的に裏で支えて、富を築いた。
中世のキリスト教徒間では宗教上の理由から、金銭を扱う(貸与して利子で儲ける)商売を罪悪だとしていたため、ユダヤ人が金融業の全般を担うようになります。
また、資産を管理するうえで重要な「複式簿記」を考案したのもヴェネツィアの商人だと言われています。
十字軍の遠征後、イタリア商人、いわゆるキリスト教徒の資本家が力をつけてくると、貿易・商売に関する商人の世界からユダヤ人は締め出しをくらう形となり、それまでは商業全般に携わっていたユダヤ人たちも、暗黙の了解で許されていた闇の金融業に走らざるを得なくなりました。しかし、それはいわゆる消費者金融まがいの商売であったことから、ユダヤ人の金に対する「悪徳」イメージが固定化。それによりカトリック教会からは街からの強制退去を強いられ、この地区に押し込まれるようにして生活せざるを得なくなったとされています。
ゲットー内には「シナゴーク(ユダヤ教会堂)」や学校なども設置され、その地区内での生活・文化が孤立する形となりました。しかし、その教育水準はかなりの高さに保たれていたようです。
ここヴェネツィアで誕生したゲットーは、瞬く間にヨーロッパ中に広まり、その後約300年間、第2次世界大戦後まで存続しました。
(写真はヴェネツィアのゲットーの入り口。この一か所しか出入り口はなく、夜は施錠された)