光で世界の闇を照らす⇒ロックフェラー
アメリカのロックフェラー家の創始者ジョン=ロックフェラー(写真の人物。1837~1937)はクリーブランドの貧しい家庭に生まれ、努力して1863年に石油精製事業に進出、1870年にスタンダード石油会社を起こし、競争相手を次々と買収してトラストを形成して巨富を築き、「石油王」といわれた。さらにニュージャージー=スタンダード石油会社に改組し、石油業を支配した。引退後はロックフェラー財団を設立し、文化事業などに基金を提供している。ロックフェラー家はその後もアメリカの経済界、政界で重要な位置を占め、アメリカ帝国主義を象徴する成功を収めた。
(引用)ロックフェラーの経営の基本戦略は、初めから経営規模の拡大に焦点を当てていた。ロックフェラーは、有能な競争相手を次々に口説き落として、パートナーに加えていった。ロックフェラーとそのグループは、1870年にはクリーブランドで、資本金100万ドルの会社、スタンダード石油(オハイオ)を設立する。」石油は急激な増産のために、はやくも70年代初めに価格が暴落する。不況は生き残りの競争を激化させた。「スタンダード石油は、最大の荷主である立場を徹底的に利用して、たがいに激しい競争をしていた鉄道会社から、いろいろなとくべつの優遇措置を獲得した。自社の貨物について、運賃割引やリベートを受け取ったはもちろんのこと、その上に、前代未聞とも思われる「ドローバック」を鉄道会社からまき上げた。「ドローバック」とは、スタンダード石油の競争相手の製油所が自社の貨物に対して払った運賃の一部である。そんなこと信じられない、と思う読者も多いだろう。しかし、それは歴史的事実である。当時は”弱肉強食の時代”だったのだ。この時期の、スタンダード石油のこのようなやり方は、後年スタンダードの独占体制が完成した後、暴露され、きたないやり方として非難され、スタンダード石油のみならず、ロックフェラー個人のイメージに大きな汚点をもたらした。・・・」
<瀬木耿太郎『石油を支配する者』 岩波新書 1988 p.13-15>
世界最大の石油トラストとして君臨したスタンダード・オイル創始者のジョン・D・ロックフェラーと弟でナショナル・シティー銀行ニューヨーク(現在のシティグループ)創業者の一人であるウィリアム・ロックフェラーによって発展した一族。
世界的な財閥で、石油業や軍事産業、金融業など様々な企業を傘下に収める。その中の代表的企業には、ジョンの孫のデイヴィッド・ロックフェラーが頭取を務めたチェース・マンハッタン銀行(現在のJPモルガン・チェース)がある。これはカーギルのメインバンクであった。
モルガン財閥、メロン財閥と並ぶ米国三大財閥の一角。英国の世界的な財閥であるロスチャイルド家としばしば比較され、2012年5月30日のRITキャピタルパートナーズでの歴史的な資本提携は話題を呼んだ。
更には、ジェラルド・R・フォード大統領の下、副大統領に就任したネルソン・ロックフェラーやアーカンソー州知事を務めたウィンスロップ・ロックフェラー、アメリカ上院議員を務めたジェイ・ロックフェラーの3名の政治家も輩出した。
また、ジョン・D・ロックフェラー2世が自らの資金で建設したロックフェラー・センターや初代が慈善事業の一環で始めたロックフェラー財団やロックフェラー大学など、その名を冠した建造物や組織もある。
(↑写真はジョンの孫のデイヴィッド・ロックフェラー)
外交問題評議会の起源は、ウッドロウ・ウィルソン大統領の外交ブレーンだったエドワード・マンデル・ハウス大佐が主宰した「インクワイアリー(The Inquiry、大調査)」グループに求められる。
同グループは1917年から1918年にかけて第一次世界大戦後の戦後国際秩序を検討するため、国務省とは別個に招集された知識人グループであり、ウォルター・リップマンが参加したことでも知られる。
「インクワイアリー」はその一部がパリ講和会議にも随員として加わり、講和会議に参加していた英国の外交官、研究者らと意気投合した。米英両国の人士は1919年5月30日、講和実現後もその知的交流を継続させるため米英両国共同の国際問題研究機関を設置し、ニューヨークとロンドンにそれぞれの支部を設置することで同意した。
そして、国務大臣などの政府の要職はこのシンクタンクのメンバーで構成された。キッシンジャー しかり。
選挙で大統領が選ばれても、ロックフェラーが選んだ人物が政府を動かした。
つまり、公務員でもない、選挙で選ばれてもいない、ロックフェラーが選んだ人間が、政府を自在に動かした。
(↑ 写真は、ジョンソン大統領とデイヴィッド・ロックフェラー/1964年)
ベトナム戦争は、東西冷戦下で南北に分断されていたベトナムにおいて、ベトナム民主共和国(北ベトナム)・南ベトナム解放民族戦線と、ベトナム共和国(南ベトナム)・アメリカとの間で勃発した戦争。共産陣営の北ベトナムをソ連・中国が、反共主義の南ベトナムをアメリカが支援する構図となり、冷戦期の代理戦争としての性質を持った。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。
建国当初よりベトナム南北両国は対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が武力闘争を行っていた。アメリカは軍事顧問を送り込むなど南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に1973年1月に和平協定を結んでこの戦争から撤退した。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させ、南ベトナムの政権を崩壊させるまで継続した。Wikipedia
損害
ベトナム
976,700人戦死
1,300,000人戦傷
米国
225,000人戦死
内米軍57,939人戦死
752,000人戦傷
ケネディは1960年の選挙でニクソンに辛勝した。そして彼は、副大統領(ジョンソン)、国務長官(ラスク)、財務長官(マクナマラ)と主要閣僚を全員、シオニスト-ユダヤ三百人委員会によって強制された。彼の意志が通ったのは、弟ロバート・ケネデイ司法長官の人事のみだという。
権力基盤がこんな状態では、ケネディがFRB廃止という、とてつもない重大問題を政治日程に上げることはできるはずがない。
しかし、ケネディはそれをやった。
ケネディは、1963年6月4日の大統領令でドル札の政府の発行を命じた。
ケネディが発行を命じた紙幣はFRB発行の銀行券とほぼ同じデザインでFRBのマークがない代わりに、
[United States Note]と印刷してあった。
---Googleサイトの【隠された真実】より---
ケネディがやろうとしたことは、それだけでは無い。
イスラエルの核武装を認めなかった。イスラエルと繋がっていた毛沢東中共中国の核兵器開発も武力で阻止する構えだった。
シオニスト-ユダヤは世界国家(世界人間牧場)を完成させる長期計画を達成するために、イスラエルと中国の核武装認めないケネディを許す訳にいかなかった。
ようやくの事で、1948年建国に漕ぎつけたイスラエルは、イスラム世界の、包囲と圧迫に抗して、その力を強化させ、やがて全世界を爆破する大戦争へ発展するように持っていくことが、イルミナティにとっの至上任務である。そのためには、全中近東で、イスラエルのみが核武装を達成し、イスラムには絶対に核兵器を持たせないようにすることが必須となるであろう。
----『ケネディとユダヤの秘密戦争』マイケル・コリンズ・パイパー著。監訳者解説 太田龍から----
つまり、ケネディは、「ロスチャイルド-ロックフェラーの金融寡頭勢力の命を受けたイスラエル-モサドとロックフェラーCIAによって殺された。」というのが真相。
(写真は1963年11月22日ダラスにてパレード中のケネディ。暗殺される少し前に撮影された)