『ユダヤのタルムード』   第五章〜

第五章  復興せられたる最高評議會及びタルムド


【その1】

 紀元90年、上記の迫害は程なくキリストの豫言した「神罰がエルサレムの上に臨んだ。パリサイ派がシネドリオン及びユダヤの輿論を完全に支配する者であったにも拘らず、 彼等は分派の發展を防止することが出来なかった。殊に下層階級に於て然りであった。彼等の間に国民の獨立を直に要求する或る分派が起った。

 ローマ人反対の一揆が成功して、エルサレムの代官は滅びた。其の援助の爲に来たシリヤの地方總督も敗北した。此の叛亂によつて遂に将軍ウエスパシャヌスと其子ティトウスは大軍を率ゐてユダヤ国を攻撃することとなった。ティトウスは恰(あたか/まるで)も過越の祭に當つてユダヤ人の大半が例年の献祭執行の爲にエルサレムに集った時、此の聖城を包囲攻撃した。

 悲壯なる奮闘によって凄絶なる慘劇を極めた後、遂にエルサレムはティトウスによつて占領された、この戦争に於てエルサレム城内で惨死した老幼男女のユダヤ人の数は實に六十萬に達し、ユダヤ国全人口の三分の一を失なったのであった。其後ティトウスは全市を焼却し、聖殿を破壊すべく命令した。

 其の結果キリストの豫言の如く、石の上に石も残さぬ程全滅した。包囲攻撃の後生き殘ったユダヤ人は、競売によって奴隷に売られた。尤もユダヤ國其の他ローマ帝国の諸州に居た親戚が彼等を買収して救ひ出したが、国民の分散は益々強化されるのみであった。

 此の叛亂にパリサイ派はただ隠れたる役割を演じたのみであった。それはこれが時期尙早であると考へたからである。彼等はユダヤ人の居留民間に於ける自分の勢力を強化するが為に、この叛亂の結果を利用しようと欲した。そしてそれに彼等は何等の困難もなく成
功した。

 何となればローマ人は表面に現はれた叛亂を鎮定し、エルサレムを破壊したが、併し世界中に離散しているユダヤ国民の分割と密接な連絡を有していた彼等の全然知らなかった宗派には十分注意を払はなかったからである。
 それでパリサイ派は、自分等が多年の間精神的感化を与え来ったイスラエル民の法権の連綿たる系統を復興することが出来た。

 神聖なる都エルサレムの滅亡、聖殿の破壊、大半の住民の慘死、シネドリオンの廃絶を聞いて戰慄しつつあった各地のユダヤ居留民團は、程なく、地中海沿岸のヤッフア市に新にシネドリオンが組織された事、破壊された聖殿に於て献祭を行ふことが不可能となったため、又災厄の際に大祭司も聖務執行者も行方不明となったため、イスラエル民の伝說を保存する機関として大學校が創立せられた事、そして総教長(パトリアルク)が人民を統治していることを聞き及んだ。

 此の總長と大學校は、ユダヤ人の政治的及び宗教的中心となるべきもので大學校は、校長と評議會とパリサイ派の學士から組織された。パリサイ派は今や國家の機関が一般に荒廢した間を唯一の一致結合した集團となっていた。そして巧妙なる陰謀によってイスラエル民の統治権を自分の秘密結社の手中に収めた。

 併し急激なる国家の滅亡は一般民をしてこの政権の簒奪(さんだつ/権利のないものが奪い取る事)を一種の恩恵と感ぜしめた。何となれば彼等は之によりて兎に角自分の國家の外形だけでも保つことが出来たからである。

【我等がイスラエル民の政治的及び宗教的發達に於て、著しく演じられていたものと認むるパリサイ派の役割は、今日までキリスト教の学者の間では殆んど氣附かれなかった。然るにこれと反対にユダヤ教の歴史家はこの間の消息を熟知し、ユダヤ民族の保全團結とを以てパリサイ派の功績に帰している。

 彼等の著書の内容を綜合するに、パリサイ派は、キリストの来臨前既に従來ユダヤ民統治のために規定されたる民間の有司と異なる秘密結社と祭司の階級を成立せしめていた。この結社の最初の中心が俘囚後多數のユダヤが残留していたバビロンであったらうか何うかといふに、これはあり得べき事と思はれる。(92p)✨


(続き)

【その2】

 兎に角タルムドに従へば、西暦紀元前30年ヘロデ大王の後世にエルサレムに組織せられたパリサイ派の承認を得た最初の総教長ギーレルはバビロンの出生であった。彼は多数の門弟を遺して紀元13年に没したが、彼の後繼者となったのは其の子シメオンであった。この人に就ては祭司ダビデ・ガンツが其の年代記に殆んど何も知られてないと自白している。シメオンの後繼者であったのが、エルサレム陷落及びヤッフアのパリサイ派大學校の占領當時に生存していた教師ヨハナムである。彼はこの町にシネドリオンを復興して、全世界の会堂にこれを承認せしめた。
  パリサイ派の権力は斯くしてユダヤ國を手中に収めていた。ヨハナムは紀元76年に没して「ヤッファ」のといふ肩書を附せられているガマリエルが之に交代した。
 ガマリエルに就てダビデ・ガンツが證言していうには、彼は全世界のユダヤ人の間に大なる勢力を有していた、のみならず外國の王等も其の領域内に居つたユダヤ人に対する彼の裁判権を認めていたと。〔傍註〕】


 總教長(パトリアルク)及びパリサイ派のシネドリオンは、其の承認を得、且つ其の権力の確立を謀るために実に三十年を要した。イスラエル民の政権が既に全く消滅したものと看做していたローマ人のためには、殆んど其の存在を認められなかった彼等は、自分の使者を各地のユダヤ居留民團に絶えず派遣して、「ディドラクマ」の殿税を徴収していた。

 この租税は、ロ―マ政府がエルサレムの聖殿の破滅後直に之を國庫に納めるべく要求したにも拘らず、ユダヤ人は依然正確に之をユダヤの有司に納めていた。之と同時にパリサイ派の秘密教は、その有らゆる捏造説や迷信や、輪廻説やメツシア(救世主)の人間的本質に就いての曲解と共に、又ユダヤ人ならざる總ての者、殊にキリスト教信者に對する嫉みと共に最も遠隔せる國々のユダヤ居留民團にまでも浸透した。

【斯くまで好成績を挙げつつあったパリサイ派のユダヤ人血盟は必ずしも全民悉(ことごと)く皆一致した訳ではなかった。
 キリスト教に轉向した者でも、兎に角モーゼの律法とユダヤ秘密教との不一致を憤ったユダヤ人は皆此の新教説に反抗する爲に團結した。 この当派は『カライム』派といふ名称を受けた、それは文書に録されたる律法(「カラ」)の信奉者といふ意味である。

 彼等は最初少数であつたが、パリサイ派の壓迫(あっぱく)が次第に強く感ぜらるるに従って其の人員も益々増加して、紀元600年の頃には強大なる分派を形造った、それはちょうどパリサイ派がタルムドの結果を完了した時であった。

 紀元775年バビロンに於ける『追放民の首長』の兄弟アナヌスが分派に加擔(かたん)した、之によってこの分派は一時著しく其勢力を増した。併し十三世紀以後次第に衰退に傾いて、現今カライム派の人員は僅かに數千を算ふるに過ないやうになり、これがためロシヤ、オーストリヤ、トルコに分散しているカライム派を甚たしく虐待した。タルムド信奉者なるユダヤ人に對する彼等の敵愾心は周知の事実である。バイブルの外に他の聖書を認めない彼等は、キリスト教信者に対して頗る好意を有している。彼等の個人としての生活は何等非難すべき所はない。】✨

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【その3】

 ユダヤ人の密使は各國に散住している同胞の在留地を洩れなく訪歴して『「われ等の救世主來臨の時期が近く到来する。其時こそ祖國復興の爲めユダヤ人は獻身賭命蹶起奮進しなければならぬ」と言って激励した、アキバ・ペン・ヨセフの如きは此の救世主はかの士師
の時代にヤエルに殺されたカカナン人の将軍シザルの家から出るのである。

 しかも純血ユダヤ人の母から生れるのだと力説した。そして彼はヤッファよりスペイン、ガルリヤ、イタリーを巡歴し、ローマには永らく滞在していたが、ギリシャに赴き、其所から小アジャを経てバビロンに往って、最後にエジプトを訪れた。

 此のヨセフの祖国の復興に燃ゆる情熱は、各所に離散しているユダヤ人に強烈なる刺戟を与へた。遺憾なく指導を終ったヨセフはパレスチナに帰った。そして大なる熱意を以ってシネドリオンとパリサイ派大學とを指導した。

 これによって彼はタルムド傳説の諸父の一人と認められた。此のヨセフの活躍と相俟つてラーウィン、サムエルがキリスト教徒に対する激逸なる呪咀文を書いた。この呪咀文は今日までユダヤ人各會堂に於て毎日新祈式に謹んで誦読せられる。

 其後程なく蜂起したユダヤ人の暴徒は、彼等の国民復興の工作が続いて行はれつつあることを示した。紀元115年に於けるユダヤの部分的叛亂は、ローマ皇帝トラヤヌスの將軍等によって辛うじて鎮定せられたが、其の反響はエジプト及びキレナイクに及んで、この地方に於て、武装せるユダヤ人が二十萬人のキリスト教信者及び異教徒を殺戮した。

 そして三年間戦争の後漸く暴徒は敗北した。これと同時にキブル島のユダヤ人は全島を占領して、サロミナ市を破壊し、キプル島の住民二十四萬人を殺したが、其の大半はキリスト教徒であった。又、メソポタミヤのユダヤ人は数ヶ月の間ローマの軍隊に封して堅忍持久の防戦をなした。其の他小規模の騒擾(そうじょう/嫌がらせ等を起こす)は諸所に誘起された。

 これ等の騒擾は一屏(いっぺい)懼る(おそる)べき叛亂の前兆であつた。紀元134年にヨセフ・ペン・アキパはパルコへバ(星の子)なる者を王位に即かしめた、彼の力説する所によれば、此の人に於て彼は來臨すべきメッシャの前兆であると認めたのであった。此の偽メッシャは忽ち二十萬のユダヤ大軍を編成したが其中には、他の諸国から馳せ参じたるものも多くあった。

 彼はユダヤ国に駐屯していたローマ總督アィンコー・ルフスの軍隊と戦って連勝し、一時ユダヤ国の主権を握った。此の短期間を利用して、彼は其権下に服した諸州に於いてキリスト教徒に対して残虐の限りを盡した。この事實はエフセウイウスの年代記及ローマ皇帝アドリアタス治世十七年の記錄及び哲學者エスチヌスの書する所である。(97p)✨


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【その4】

 アドリアヌス帝は勇將ユリウス・セウエルスをブリテン国から召して叛亂を邀撃(ようげき/迎え撃つ)せしめた。バルコへパは戦ふこと二ヶ年の後途に敗れた。彼はアキバ及び其子パッピウスと共にユリウス・セウェルスの捕虜となった。

 ユリウスは彼等がローマ人に与へた惨虐に報ゆるに彼等の身體から生きながら皮を剥ぎ取ったと伝えられている。エルサレムは此の抗戦の中心地ではなかったが再度の突撃によって占領せられ、◯に聖殿のあった場所は徹底的に掘返され、鹽(しお)を撒かれて淨められた。ここに於てユダヤ人が殆んど絶滅せられ、僅かに生き殘ったものは奴隷に売られ、或はエジプトへ追放された。

 此の敗北はパリサイ派の野望を達成せん爲めには一大打撃であった。ヤッファのシネドリオンは、エルサレムのそれと同様に解散せられ、四方に追放せられ、全イスラエル民は大なる恐怖に襲はれた。それでもパリサイ派は活力を失はなかった。ローマ軍の馬蹄の音がユダヤの地に消えるや否や、パリサイ派のシネドリオンは新にペテリヤに設立せられ、そこにヤッファの大學校も移された。

 アドリアヌス帝がエジプトの情勢を視察に赴いた時其地に會々(あいあい/たまたま)地方の会堂を視察する爲に来たユダヤ人の總教長シメオン三世の滞在している事を知ったが、アドリアヌス皇帝及從者はユダヤ人の遠大なる宿望を看破することが出来なかった爲めに、假令一時消滅しても、再び灰燼の中から復興し、依然として各地のユダヤ居留民團に動かすべからざる勢力を有する、此の秘密的権力の調査を行ふ必要を認めなかった。この權力を危險せざるのみならず、後に至って其存在を他の諸宗派の最高教職と同様に公認するに至った。

 この公認の年代は確定されていない。兎に角テペリヤの総教長は疑いなく慎重の態度を取っていた。

 しかし即位の當初ユダヤ人に敵意を懐いていたアントニヌスが後に至って彼等に少からす好意をもつようになったといふラウウィン等の傳説は、真面目に注意を拂つて見る必要があらう。(99p)

 兎に角其出生がシリヤ人で、ユダヤ人の母を持っていたアレキサンダー・セウェル帝の時(紀元252年)から始めてテベリヤの總教長の存在と、其全ユダヤ人に対する支配権はローマ皇帝の勅令によつて確認された。

 コンスタンティヌス大帝はキリスト教信者であったにも拘はらす、此の教職を廢止しようともしなかったのみならずユダヤ總教長の或る課役、例へば左ほど名誉でもなく、面倒で多くの時間を奪ふ十人長の任務を免除することに同意した(テオドシウス法典)甚だしく殘酷にキリスト教徒を迫害したユリアヌス皇帝は、エペソのマクシムによつてユダヤ秘密教の秘密を授けられた後、ユダヤ民に宛てた親書中に總教長を「兄弟」と呼んでいた、そして総教長の請願に応じて、エルサレムの聖殿の再建を命じた、併しこの工事は奇蹟的に不成功に終った。

【此の奇蹟、殊にこの工事の時火の玉が現れて、そこに働いていた人々を滅した事の記述は、キリスト教の学者ソクラト、テオドリト・サゾメン等のみならず、教會外の歴史家、例へばジュリアヌス皇帝の側近者として其證言に疑を挟み難きアミエン・マルツュリンの如き学者の著書中にもある。この事件はユダヤ人教師ゲラリヤも其労作『シヤルシュレト・ハ・カツバラーの中に認めている。またエルサレムの主教聖キリルの書翰中にも記されてある。〔傍註〕】 ✨

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【その5】

 東ローマ帝國のテオドシウス皇帝は、その反対にテベリヤの絶敦長に各會堂から『ディドラクマ』の殿税を徴収する事を禁じた。この勅令は紀元390年に其の子ゴノリウス皇帝も確認した、併し其の後五年を経て、總教長は皇帝に請願してこの勅令の廢止を得た。

 終に小デオドシウス皇帝は最初415年に總教長の権限を著しく縮小した(テオドシウス法典、ユダヤ人に就いて)が、420年、我等がなほ以下述ぶる事情に際して、總教長の職を全然撤廃した。これに依って見れば、パリサイ派は完全に其の目的を達成し得たのである。

 即ち最初彼等はユダヤ人の為に精神的祖国に類似したものを造り、そして彼等は自ら其の政府の地位を占めた、其の後ローマ皇帝の権力によつて此のユダヤ政府が承認されるようにしたのである。

 この「ユダヤ政府」といふ名称は、我等が次ぎの如き事情を知ればさほど驚くに足りない。即ちローマ皇帝の勅令中にテペリヤの總教長に就いて「最も榮譽ある最も輝かしき」といふ尊称を用いてある、この尊称は、当時の高等官に任ぜられた程度のものであった。
この特権はエルサレム聖殿の滅亡前の大祭司の有していたそれと同等であった。

 實際總教長は、全世界の会堂に對する監督權、殿税の徴收権を有し、シネドリオンの意見を諮問するのみで、教義に関する問題を解決し、「ロ・シアボト」即ち一州内の全會堂を統治する民の長老を任命し或は交迭した。

 彼はまた自分の「使徒」即ち全権を有する吏員を通じて長老を指導した。これら「使徒」の任務は、ローマ帝国の東部、西部アフリカのローマ領地及び小アジアを巡歴して、命令を傳達し、租税を徴収するにあった。

 總教長の裁判権は至って広範であった。即ち彼は自ら或は裁判官を通じて裁判を行ひ、 ユダヤ人の間に起った訴訟を審査するばかりでなく、刑事裁判を行ひ、罰金、投獄、死刑以外の種々の體刑を宣告す権利を有していた。

【オリゲヌスは、テペリヤの総敎長が死刑の宣告を行っていたと言っているが、併しこの證言は総べてのローマの法律と矛盾している。尤もパラディウスは其の『聖クリゾストムスの傳記』に於て、總教長がユダヤ民に封する権限を◯々超越していた事を指摘しているが、併しそれは専ら財政問題に就いてであった。

 紀元415年に發行じた勅令に於て、小テオドシウス皇帝は、当時ユダヤ人を統治していた總教長がマリエルに対して、訴訟で争っていたユダヤ人とキリスト教信者を自分の法廷に召致して、自分の権限を擴張することを禁じている。これは左様な権限の超越が行はれていた事を立證するものである。斯様に自分に属せざる権利を僭取(せんしゅ)したことに対して彼を罰する爲にテオドシウス皇帝は最初彼に与へた多くの名譽職を解いた〔傍註〕】 ✨

(続き)

【その6】

 終に總教長に隸屬していたシネドリオン議長の職は、常に選挙に由ったものであるが、総教長の権力は久しき以前から世襲的とされていたようである。それはこれに由ってユダヤ民のこの至上に王権の性質を附するが爲であった。

 この権力の創立は勿論一朝一夕の事ではなかった。總教長は紀元135年エルサレムの再度の破壊から252年アレキサンダー・セウェルの治世に至るまでの期間に、徐々と其の権力を強化したのであった。併し彼等の権力は其の歴史全體を通じて最も偉大なる人格とも謂ふべき聖ユダの總教長の職に就いた當初、即ち190年の頃既に牢固となったのである。

 此のパリサイ派の學者なるユダ(ユダヤ教の歴史家の言ふ所に従へば、アキバの死刑に処せられた日に生れた人で、アキバの生れ變つた者である)は斯う悟ったのである、 即ちイスラエル民は今後久しき間に亘って或は最早永劫武力を以てユダヤ国を奪還しようという考慮を棄てて、これに代へるに分散したるユダヤ民のため國民的中心を造らねばならぬと。併し此の思想は彼をしてかういふ危険を感ぜしめた。(104p)

 即ちパリサイ派の教義は、只だ辛うじて各ユダヤ居留民團を心服せしめていることに限らぬから、若し一朝迫害が起り、パリサイ派のシネドリオンが解散せられ、或は全世界に散在しているユダヤ人との連絡を維持する便宜を失った暁には、此の教義は彼等の間に保
持せられ得なくなるであらう。

 それ故に彼はシネドリオンの「使徒等」の口述の宣傳を補ふに、パリサイ派の秘密教とユダヤ民の道德的、宗教的及び民事的律法の解釋を組織化したる文獻を以てせねばならぬと考へた。聖ユダは自らミシナ、即ちエルサレムのタルムードの最も本質的部分を成し立てている「第二の律法」を編纂して、上記の如き大勞作の礎を置いたのである。 ✨

(続き)

【その7】

 此の多言で、乱雑な、矛盾と誤認に満ちた勞作(タルムード)は、パリサイ派に教育されたユダヤの學士等の見解を最も善く説明している。この勞作は六篇に分けられている、第一編は播種及び刈入に就いて述べている、そして所有権及び所得稅その他にも言及している。第二編は祭日及び之に関する風習を守る規則を述べている、第三編は婚姻に関する総べての問題を含んでいる、第四編は裁判及び商業の問題、又異端の問題に就いて説いている、第五編及び第六編は本分(?)及び洗淨の問題を解説している。此の書は同時に民事法典、宗教的規定集、譬喻(ひゆ)及び逸話集又ユダヤ民の道徳教訓書である、その如何なる教訓であるかは以下述べてみよう。

 この労作の編纂に自分の総教長在職三十年を獻げた。そして其の編纂の進むに従ってこれを部分的に各會堂に頒布したのであったが、パリサイ派の総ての教師等の目的としていた人生の有らゆる偶發的なる場合に封する解決を提供することは出来なかった。それで彼の存命中、又其死後テベリヤのシネドリオンは、彼の勞作に封する、多数の解釋者による増補を、其追加として編纂することを企てた。

 ミシナ及び其解釋全集(其の中最も重要なるものは四世紀のラーウィンであつた教師ヨハナンの編成に係るゲマラである)は、エルサレムのタルムードを成し立っているものである。此のタルムードの編纂は、テベリヤに総教長及びシネドリオンの存在してるいた時代を通じて編纂された、そして不満を懐いて離抜した數千のユダヤ人、即ちカライム派を除く全世界の会堂は此のタルムードを受くると共に何等の反抗もなく一斉に之を承認した。(106p)

 併(しか)しシリヤ王の治世の間、總教等の受けつつあった擁護は、キリスト教がコンスタティヌス大帝に由つて帝座に登った時以來極めて不安定なるものとなった。實際背信者ユリヤヌスの治世以後、ローマ皇帝は何れも皆總教長の特権を制限するに傾いていた。

 紀元429年小テオドル帝(テオドシウスの誤りと思はる)は總教長ガマリエル四世を貶黜(へんちゅつ/官位を下げる)するに決した、貶黜せられた後ガマリエルは民間に身を潜めてイダヤに於て醫學の研究を続けていたようである。セクスト・エシピリクは之に就いて其の著書三三巻中に彼を称賛している。そして同時に彼は總教長の職を廢止した。✨

(続き)

【その8】

 この處置はイスラエル民に特別の動搖を惹起しなかった。其の理由は明白である。ガマリエル四世の父ギレル三世は、攻撃の目的を以って、真面目に研究していたキリスト教を死する前に受けた爲に自分の一族に対するユダヤ人の信用を傷けたのである。

【このギレル三世はオリゲヌスを知っていた、そして彼と信書を交換していた。聖エビタヌスが、キリスト教の洗禮を受けて後にテベリヤの主教になった。ユダヤ人ヨセフから聞いたといふ物語りによると、ギレル三世が死する前にこのユダヤ人を自分の許に招いて洗禮を受けることを求めたといふことである。〔傍註〕】

 それで其の子の貶黜(へんちゅつ)は、シネドリオンの爲にも皇帝の政府と殆んど同様に望ましい事であった。他の一面に於てキリスト教を捧する皇帝の◯に發布した勅令と其政権の確立とによって、イスラエル民の政府の首都がローマ帝国の屬領にあった場合、この政府の平静なる工作は多くを期待し得られなかった。

 是等の原因によってシネドリオンは自然其の眼を東方に向けるようになった。何となれば其處にサッサ二ド王朝の権下にあったペルシャ帝国に移住していたユダヤ人が大に繁栄していたからである、斯うしてシネドリオンは遂にバビロ二ヤに移るに決した。

【バピロニヤは、バイブル時代には天を征服せんと努力していた地の諸子の陰謀を行った舞臺であった(以上既に述べた神化人の崇拝への興味ある序奏曲)、故に常にユダヤ人の憧憬の的となっていた。バビロニヤの領地にあった町なる所謂ハルデヤのウルから彼等の祖先アブラハムが出た、バビロニヤにはまたユダヤ国の住民が俘虜として移された。

 バビロニヤの哲學は彼等の信仰を神道に導いた、バビロニヤからはまた紀元前三〇年にパリサイ派の第一總教長大ギルレルが出た、終にバビロニヤへは小デオドシウス帝の勅令發布後ユダヤの秘密政府が帰った、そして紀元1005年まで其処に存していた。

 なほ次の一事を加へて置かう、即ち俘囚時代以後ユダヤ人の口語は、 最早古典的ヘブライ語ではなく、アラメャ語、即ちシリオ語とハルデヤ語の混淆たる方言であった、そして古典的ヘブライ語は單に學者のみ使用する言語となった。エルサレムのタルムードはアラメャ語で書かれた。

 1911年の八月に文藝大學に於てピニオンの述べた調査報告の結論によれば、ユダヤ人は俘囚の後バビロニャの暦を採用したということである、其論拠となっているのはエレファンティナで發見された古代エジプトの寫本である。〔傍註〕】(109p)✨

(続き)

【その9】

 此のユダヤ民の政府がバビロニャに樹立されたのは、ある學者等の著書、殊にカトリック修道院長シヤボティの勞作『ユダヤ人は我等の教師なり」によれば、西暦紀元二世紀である。

 それによると聖ユダは二世紀の初に當時バビロニャに君臨していた、『追放民の君主』(バビロニャに於けるユダヤ民族長)及び全ユダヤ民の首長グーナの至上権を承認していた。此問題を熟慮研究した結果、又我等が決定的なるものと認める理由によって、我等は以上の証言を放棄せねばならぬ。

【五世紀以前にバビロニャに『追放民の君主』が存在していた事の唯一の論拠は、以上擧示した『ゲルマラの結論』中の一句に含まっている。

 然るにタルムードの此の部分は殊に時代錯誤や、寓話や、非條理の妄語に満ちている。この句の筆者であった解釋家は、多分其の時代の『追放民の君主』に媚びて、 この「君主」なる職の由来が古代に属するものである事を誇張しようと欲したのであらう。この解釋家は、『追放民の君主』以前に存在していたユダヤ国の總教長を黙殺し去ることの不可能なるを知って、總教長を以て『追放民の君主』に隸屬していた者と爲したに過ぎない。

 併しこのグーナなる者の祖先に就いても、その子孫についても知られている者は何もない。そして歴史に出されている初代の『追放民の君主』は五世紀、即ち總教長ガマリエル四世の貶黜とテベリヤのシネドリオンの解散の後にいた人である。そして此の人は未完成のままになっていた。タルムードの編纂の継続を企てたバビロニヤのシネドリオンと同時に現はれたものである、これは単なるシネドリオンの場所の變更を示すものに過ぎない。そして此の變更と同時に總教長の血統の變更を生じ、これによつて、シネドリオンも或は一層能率の向上をはかり得たかも知れない。 (111p)

 惟ふに、エルサレム宮殿の破壊の時以来ただ同一のユダヤ政府が続いて存在し得たのみで、それが相次いでヤッフワ、テビリヤ、バビロンと所在地を變更したのである。そして我等の考ふる所によれば、此の政府は後世コンスタンチノーボルに移され、其の後更らにサロニキに共の所在地を變へたのである。(われ等は『ゼフエル ・オラム・ズーク」)には何等の価値をも認めない。

 これは極めて曖昧なる書で、 エルサレムがネブカデネザル王に占領された時から五世紀の中葉までの『追放民の君主』の族譜を載せている。著者は我等の上述の見解を裏書するに足るべき荒唐無稽の言説を多く並べている。

 例へば彼は「マッセヘット・アボド」の創述者なる教師ナタンをグーナの父であると言って居る。併し此の教師ナタンは有名な人物で、彼は三世紀の初めの總教長聖ユダの時代にテベリヤのシネドリオンの議長であつた。總て此の調子である。〔傍註〕】(112p)✨

(続き)

【その10】

 紀元249年にテカドシゥス帝の勅令發布も歴史の表面から其跡を消した。テべリヤのシネドリオンは、其の後二十年を経て、依然と同じ組織、同じ権限、また同権能を以ってバピロンに復興せられた、そして其勢力は総てのユダヤ居留民團によって承認する所とな
た。

 此のシネドリオンの上には、傳説によれば、古代のユダヤの總教長と同様にユダの王族から出た、世襲的『追放民の君主』の一人が君臨して居た。この假想的撤廢は所在地の變更によつて、ユダヤ民の政府は、ローマ皇帝の監視を避け得たに過ぎなかった。何となればローマ政府は最早これに対して動きかける何等の便宜をも有しなかったからである。

「追放民の君主」及びバビロンのシネドリオンの歴史は、ユダヤ年代記によって、われ等に殊によく知られている。この年代記は、君主とシネドリオンをあらゆる荒唐無稽の記事や造り話をもって飾っている。當時ペルシャ國を治めていたサッサニド王家は、最初彼等を庇護したのみならず、ある程度の榮譽をも保たしめていた。『追放民の君主」の即位式は次のように描かれている。 (113p)

 シネドリオンの議長は、玉座に出る「新君主」に向って「自分の権力を濫用せざる事」の誓文を読んだ。そして風民の現に遭遇しつ、ある悲境の爲めに彼は王位よりも寧ろ端役に召されたものである事を彼に示唆した。其の次の木曜日に大學校の長老等は喇叭(ラッパ)の音と人民の歓呼の聲の中に会堂に於て彼の頭に手を置いた。

 人民は莊嚴に彼の其の家まで送って、豊かな贈品を獻じ、土曜日の朝すべての貴顯紳士が彼の家に集まり、彼は其の主席を占め、金欄で共顔を掩つたまま其の家を出た。そして民衆に伴はれて会堂に行った。そこで大學校の長老等と唱歌隊が、彼の治世に神の祝福の臨む事を祈る聖歌を合唱し、そこで律法の書を彼に手交した。

 すると、彼は其の第一節を誦讀し、次いで敬意を表する意味で、眼を掩(おおっ)たまま、人民に述べた。また彼に代ってシリヤ大學校の校長が説教を演べた。儀式は新君主に對する敬意の高唱と神が彼の治世の間に国民を解放せん事の祈疇をもって結ばれた。彼は人民を祝輻し、各洲の為めに神が之を悪疫と戦争から防疫する様に個々に祈祷を獻げた。彼は儀式を黙祷を以って結んだ。

 それは彼が他の國王の滅亡を祈つて居る事を誰かが聞いて、これを彼等に通告する事を恐れていた爲めであった。何となれば實際ユダヤ人の国家は他の国家の廢墟の上に建設され得たからである。会堂を出た後、彼は嚴肅に宮殿に送られ、其所に人民の長老等を招いて盛大な酒宴を催した。これは彼の最後の外出であった。

 その後、彼が大學校を訪れる時以外に宮殿を離れる事が出来なかった。彼が大學校に行った時は皆起立して、彼が着座を求めるまでに立っていた。尚、一つの外出の場合はバビロン王の許に行く時で、それは彼の即位式に次ぐ盛儀を以って行はれた。

 バビロン王が此の訪問の豫報を得るや、特別差廻しの馬車を送って迎へた。イスラエルの君主は、此の好意を受くるを畏れ多しとして、自分の前に此の馬車を引き行く事を命じてこれを以つて自分の敬意と依存關係を表明した。

 此時、彼は華麗な金欄の服装を着け、五十人の親衛隊が彼の前に進んで行き、途中彼に行き合った人々が、皆彼に随行して王宮まで送ることを自分の義務と心得て居た。王国では寵臣等が彼を迎へて王の玉座に導いた。此時官吏の一人が彼に先行して金銀を分与し
た。王に近づいた時彼はその前に伏して、これを以って自分の屬國の君であり、王の臣下である事を表明した。最始の挨拶の後、彼は王に自分の希望と自國民の政務とを陳述した。王は直ちに之が解決を与えた。(1710年パリに於て發行されたルイ・ルラン著ユダヤ史より) ✨

(続き)

【その11】

 だが、ペルシャ王等は程なくユダヤ政府の行動が、彼等のために有害である事を悟ったに違ひない。何となれば彼等は遂に此政府に對して斷行たる處置を講じたからである。即ち數人の『追放の君主』は相次いで殺害せられた。シネドリオンは解散せられ、ユダヤ人の學校は閉鎖せられた。そこでユダヤ人は自分の勢力をつくしてアラビヤ人の侵略を支持した。此の侵略の結果遂にペルシャ国は滅亡してユダヤ人は新たに復興することを得た。

 未會有の強大なる勢力を得て、『ナジ』(シネドリオンの議長)はアラビヤ國王同々敎主の治下に1005年まで其の存在を保った。此の年アラビヤ王カデル・ビルラクは以前サッサニド王朝のペルシャ王と同様なる危惧の念を懐いて『追放民の君主』エゼグリヤを絞刑に慮する事を命じ、向、其の屬領内からユダヤ人の勢力を全滅せしめた。爾來『追放民の君主』なる職位は合法的に再興せられなかった。そしてシネドリオンも亦遂に召集せられなかった。併しユダヤ民が其の人種的一致の永続を保證すべき、中心機關なくしては止まなかったと考えられる充分の根拠がある。

 1005年にアラビヤ王カデル・ビラクの命令によってユダヤ政府が廢滅された後、われ等は最早其の痕跡を見ない。十二世紀の有名なユダヤ人の旅行家ベニヤミン・トゥデリスキイはバビロンに王位に即いて居た一人の追放民君主を見たと力説している。

 だが、此の力説は單獨である。そして惟ふに此の祭司トウデリスキイは其の記述しているすべての国を巡歴したのではなかった。假りに其の中の一人が、當時實際に存在していてベニャミン・トヴデリスキイがそれを訪問したとしても、此の存在はアラビヤ王から隠されていて、只だ秘密教の極意に通じていたユダヤ人にのみ知られていたことが、恰度(ちょうど)最初ローマ政府から隠れて居た総敎長及びヤッファのシネドリオンと同様ではなかったろうか、これによって萬事、殊に次の總ての事は説明されるであらう。 (117p)

 實際、數多の證明に幾多世紀の間ユダヤ民の至上権の連綿として存在していた事を裏書している。併し此の至上権は公開的のものでなく、従って過去の時代のやうに容易に毀損せられ易いものでなく、寧ろ精緻を極めて、カムフラジせられて只だ専らユダヤ僧團の首脳部、イスラエル民団の長老にのみ知られて居るものである。
 かかる政府、眞正の秘密會議が限定された人員の統治者に働きかけて、これによつて容易に全ユダヤ民に自分の権力を普及させることができた。現今「團結進步委員會」と称する機関の設置してあるトルコに於て、叙上の如き秩序の下に収め得べき結果の標本を見ることができる。左にわれ等の論據となつて居る文獻を擧示(きょじ/示す)しよう。(118p)✨

(続き)

【その12】

【一、1640年アウィニオンに於けるカトリック教会の司祭イ・ブイの發表した著書によれば、此の勞作中に或る地方の修道院の文庫に於て謄寫された、其の當時旣に150年を経過していた二通の書翰の複製が載せてある。

 その中の一は1489年「サパト」の月13日にアルリ市にあるユダヤ長老會長ラウウィン・シャモルからコンスタンチノーブルのユダヤ長老會に宛てた書翰である。此の書翰中に、前者は、ブロワンスの新統治者なるフランス王がユダヤ人に對して洗礼を受けるか、退去するか何れかを強要しようと欲している事を報告して、 此の場合如何に善慮すべきかを諮問している。

 第二の書翰は同年「デ・カスレウ」の月21日の日附になっているその中に「ユダヤ民最高祭司等」の回答が含まっている。そして「コンスタンチノーブルのユダヤ人の君主」と署名してある。彼等はアルリのユダヤ人等に虚偽的キリスト教に轉向する事を勧めている。そして後日キリスト教徒の上に如何にして主権を保持すべきかについて種々の方法を教示している。また彼等の生活に於て、宗教及び所有権の問題に於て彼等は損害を加へる方を授けている。

 1880年にブロワンス文藝作品集が此の書翰を公表した時、ユダヤ人新聞界に喧◯たる論議が起り、非友誼的態度を非難する声があがった。これに對し此の書輪の發表は1640年未だユダヤ人反對運動のなかった時分、すでにカトリック修道院長ブイが行ったものであると云って反駁した。

 そこでユダヤ人は、然らば此の偽造も頗る古いものであるといって逃げる外はなかった。十六世紀の末にトレンドの古文書倉庫で發見されて、1583年にスペインのナワルラ町の或る貴族ュリアン・デ・メラノが『シルバ・クリオザ』と題するスペイン語の著書中に、發見されたスペインのユダヤ人に宛てた書翰が知られるやうになった時、ユダヤ人の計画は全然失敗に歸した。斯くして1489年即ち上記の書翰の往復せられた時代に追放民の君主及びシネドリオンがコンスタンチノーブルに隠然存在して居た事は確實となったように思はれる。

二、1851年ロンドンに於て發行されたモーセ・マルゴリウス著のユダヤ史によればイタリーのフェルララ町の一ユダヤ人エンマヌエル・トンメリは虚偽的にキリスト新教を受けて、ケンブリッチ大學のヘブライ語の教授となった。そして当時の英國王室と親交を結んで居た彼は、それと同様にカトリック教会の深甚なる敵であった。そして彼はユダヤ密教の秘密を授けられて女王エリサベスの寵遇を得て居た神學者であり、またヘブライ語の學者であるヒューゴ・ブラウトンの教師となった。

 ある時、ヒューゴ・ブラウトンは、英國とユダヤとの間に眞正の同盟を締結する事を提議したコンスタンチノーブルの、ユダヤ人の首長なる教師レーベンの公書を女王に傳達した。教師レーべンは自分の代表者となつてゐる集管は、全世界のユダヤ人の中心となって居る、と其の書中に言明していた。彼は協定の交渉を行ふ全権を賦與(ふよ)された女王の代表者を、コンスタンチノーブルに派遣する事を求め、其の交換条件としてバイブルの英譯を發行するために、ユダヤの學者を派遣することを提議した。エリザベス女王は此の提議を認可する事を餘り急がなかった。だが、女王崩御の後、ヤコブ一世スチュアルトの治世に、ヒューゴ・ブラウトンは、再び同件案の解決に着手し、比較的成功を見た。

 例へば、彼は數世紀以前に英國から追放されたユダヤ人の帰還について許可を得る事に成功した。ユダヤ人の著書から借用した此の歴史の一頁は、紀元1600年の頃、即ちアルリからユダヤ人に宛てた書翰の書かれた時から、一世紀以後シネドリオンが向ほコンスタンチノーブルに存在していたことを立證するものである。

三、1710年パリに於て發表されたルイ・ルラン著の『ユダヤ史』に依ると「デイドラクマ」の殿税は、尙ほ其の當時にも微收せられて居た。彼の言ふには「此の風習は保存せられていた。何となればオランダ其他ユダヤ人が多少余裕を有していた国で、此の国民の徴収した金は先づべニスに送られ、其所から更にフェツサロニキ(テッサロニキ)に送られていた。此の金で聖地パレスチナの教師等の被服に必要な総ての品物を買い求めた。これらの品物はまた此の教師等を毎年の初めに公平に配置したラペリヤの大學の長老等の手に渡された。(122p)

 けれども、之等を輸送した船が、途中に待ち受けていた海賊の眼を避け得ることはなかなか容易でなかった。本書の著者は、其の當時ユダヤの秘密政府の存在していたことを考へた事もなかったのであるから、十八世紀の初にディドラクマを徴収するというやうな、彼の爲に驚くべき事実に対しても、明かに他から注入された解釈を加えている。

 彼は此の事実を慈善の目的から行はれたものと認め、そして租税を徴収する権利を有していたユダヤの政権とは何もので有ったか、其の目的が慈善であったか否かは少しも問題としていなかった、次の点もまた同様に指摘しておこう、即ち斯の如くしてべニスで徴収した金はその後コンスタンチノーブルに近い、殆んど全部ユダヤ人の町であったサロニキに送られた。それ故にその所へシネドリオンを移すことも至って容易に出来たわけである。爾後の金銭の使途は全く架空の話で、只著者を疑感に陥らしめる為にのみ豫定されたもののやうに思はれる。といふのは、若し此の金銭が聖地の為めに豫定されてあったとしたら、何の爲めにそれをサロニキに送ったのであらう。聖地は全然此の海路にあたっていないのである。

 向、ここに指摘すべき事は、ユダヤ人のサロニキは今日もたほ依然不安な町で、トルト青年党の革命も此處から起り、團結進步委員會もここで創立されたということである。また各国のユダヤ人からディドラクマを徴収することは常に義務的であって、それが常に会堂を通じて行はれているといふこともここに指摘しておこう。
 我等はこれに関する無数の證拠をドレイフス事件の際にも見たのである。】(124p)✨

第六章  神及びバイブルのより崇拝される豫言者と『タルムード』

【その1】

 「タルムード」は極めて多くの版を重ねた。なかんづくユダヤ国民の期待と陰謀とに資することの多い。バビロンの「タルムード」は、ユダヤ人の間に絶大の尊崇を以て歡迎され 尤も古い「タルムード」は1520年印刷機の發明と同時に、ボンペルグによってべ二スで發行され、これは十二卷に分けられた二ツ折り型の印刷である。
 ユダヤ人が自分の聖書である「タルムード」が、自國民以外の人々の眼に觸れる事を非常に恐れ、シネドリオンと題する書に「ユダヤ人に非らざる者が『タルムード』を読む時は必ずこれ等を殺すべし」と云っている。 (125p)


 「タルムード」が印刷機により發行されてから三十年を経た1550年、マルク・アントニ・ジュスチュア二によって、初版(印刷機によっての)に何等の改訂増補も加られずべニスで再版が發行された。此タルムードの刊行はユダヤ人にとって一大脅威であった。というのは、ひた隠しに隠していた、自分達の遵守しているタルムードが、非ユダヤ人眼前の天日に曝らされたからである。

 彼等は、此の時まで、キリスト教徒或はキリスト教に轉向したユダヤ人が、イスラエル民の信仰するタルムード教道の道徳に反するものなる事を如何に指摘しても、またこれを立證するために、彼等の聖書から誤謬の章句を利用して詰責しても、ユダヤ人等は、無學なる翻訳者の誤譯とか、或は寫字生の過失に罪を帰して糊塗して来たのであった。

 然るに確實性の徴候を充分に有する決定的印行本と、其寫本とを照合する著者に対しては、上述の如き姑息な釋明は公然通用しなくなった。それ故に十六世紀のユダヤ人排斥論者は官憲に対して、自分等の論難の正常なるかを確証するに不動の基礎を得たのである。(126p)

 これがため1581年パーゼルに於て發行されたタルムードの第三版は、ローマ法王庁の厳重なる検閲によって、キリストと其の教育に対し特に悪意を現している各ヶ所を悉(ことごと)く削除せられた。然るにユダヤ人は削除せられた涜(とく/汚す)神的箇所だけを別に出版して、自分等の所有していた書中に挿入増補した。之によって1600年の完全なるアームステルダム版及1605年のクラコフ版が世に出た結果、生じた新たなる不平のためにラウウィン等は一層慎重な態度をとって、最早イスラエル民に対する武器を敵に与えないとに決した。
 これに因って1631 年ポーランドに召集せられたユダヤ最高會議は、今後総ての出版に於ては攻撃を誘發するやうな個所を全部削除すべく規定した。そしてユダヤの背信行爲の記念物として摘發するに足る如き措辭(そじ/言い回し)を以ってこれを行った。

 その規定に曰く「故にわれ等はミシナ或はゲマラの今後の出版に於ては、ナザレのイエスの行跡に対し善悪に拘らず關係を有する何物をも印刷せざるべく、これに違反する者は最高度の破門処分を以て罰せらるる規定の下に命令す。従ってわれ等はナザレのイエスに関する問題を含む個所は白く殘し置く事を命令す。此の個所に記入する〇の字の如き丸印はラウウイン及び敎師のためにこの個所を専ら口頭にて青年に教授すべき事の警戒となるべし。此の警戒を遵守する場合に於ては、キリスト教徒たるナザレ人の學者は此の問題について我等を攻撃する動機を有し得ないであらう」と。

 上記の決定は、次に列挙する出版に於て多少完全に適用せられた。即ち最も完全なるはウイーン版、アムステルダム版(1644年)オデル河畔フランクフルト版(1697年及び1716年—21年)ザルッバッハ版(1769年)、パリ版(1839年)、及びワルシヤゥ版(1863年)である。しかしこれ等の出版は隠匿個所があるにかかわらず、憤慨すべき厚顔無恥なる言辭に満ちている。
 それでペブライ語の學者なるパリ大學教授、カトリック修道院長神學博士オーグスト・ローリングは上記各出版中から拔萃を作って、1878年に『ユダヤ人・タルムド學者』と題する小著を出した。この書は最初ウェストファリャのミュンステルで出版せられたが、此の書の或る引用が確實でないと攻撃した批判論文が現れた爲めに、他のカトリック修道院々長神學博士マシミリアン・デ・ラマルクは上記著書全部の審査に十年を費して、1888年にこの書をブリュッセルの出版業者アリフレド・ヴロマンの手で新たに出版した。其の際出版業者ヴロマンは、此の書に含まっている引用個所中一つでも不正確なる事を立證し得た者に一萬マークの懸賞を約した。
 爾来(じらい)既に二十五年を経過した。上記の著書はベルギー、フランス、ドイツに於て數十萬部に上る販賣普及を見た。多くのラウウィン等は此の書を手にしていた。それでも由来ユダヤの固有性ともいふべき旺盛なる殖利慾にもかかわらず、一つの引用個所でもその虚偽なる事を立証して、此の懸賞の獲得を試みようとの冒険を企てた者はなかった。
 斯る經驗は猜疑心の深い人々に対する立證となることが出来る。故にわれわれは此の二人の修道院長ローリング及びデラマルクの勞作を利用して、その中からわれ等の爲めに必要なるタルームドの拔萃を挙げて見よう。何よりも先にわれ等は第一編に於て、其長年月に亘る編纂の沿革を略述したタルムードが如何に大なる意義を、ユダヤ人の爲めに有するものであるかを論証して見たいと思う。(130p)✨

(続く)

【その二】

 この書を著述したパリサイ派の人々が、その第一の目的としたのは約千年に亘る彼等の凝視熟慮の成果なるこの書の教義學上の価値を誇称し且つ讚美するにあった。これに就いて彼等は充分その目的を達した。この自分等の著書を以って彼等に厭忌(えんき/嫌う)心以外何をも感ぜしめないバイブル以上のものと認めた。それといふのは、バイブルは彼等に只だイスラエル民の正統的信仰の時代を想ひ現さしめるのみであったからである。それ故にタルムードは其の多くの個所に於て、バイブルに対する自己の優越性を宣揚している。次の拔萃は疑もなく之を立証している。

 バイブルは水の如く、ミシナ(口伝律法)は酒の如く、ゲマラ(注釈)は芳醇の酒の如くである。
 世界が水なく、酒なく芳酒なく、存在し得ざる如く、バイブル、ミシナ及びゲマラ無くして保持されない。神人間の約束は鹽(しお/塩)の如く、ミシナは胡椒の如く、ゲマラは芳香の如くである。しかし世界は鹽浜の他の物なくしては存在し得ない。バイブルを學ぶ者は、それ自体善行であり得る事も、あり得ないこともあるやうな事を行ふものである。ミシナを學ぶ者は善行を爲す。そしてこれが爲めに其の報償を得る。またゲマラを學ぶ者は最高なる善行を表白するものである。若し人がタルムードの言葉をバイブルに移すならば、それに因って一層幸福なる者とはならぬであらう。
 タルムードの中には、ラウウィンの創作が神の靈感を受けて書かれたる創作に、バイブルを指す卓越せるものであるとの思想が常に繰返されている。その言に曰く「タルムードの言は、約束即ち旧約聖書の言よりも甘い』故に『タルムードに対する罪は、バイブルに
対するそれよりも重い」。總ての註釋家は一斉にこれに附け加へて斯う言っている。『バイブルを手にして、タルムードを手にせざる者と交際すべからず』。『わが子よ、ラウウィンの言には、約束の言よりも大なる注意を払え』。『ミシナ及びゲマラなくしてバイブルを読
む者は神を有せざる人に等しい」。(131p)

バイブルに対する「タルムード」の優越性についての此の確信は、ユダヤ人の意識に浸透しているので、ユダヤ革新派の声とも云ふべき雑誌「ユダヤ古書庫」は、些の躊躇もなく斯う言明している。「タルムードについて云ふ時は、われ等は是がモーゼのバイブルに対して有する絕對的優越性を認むるものである」と。

 この優越性を説明するために、ユダヤ人の傳説は斯う力説している。即ち神はシナイ山でモーゼにバイブルばかりでなくタルムードをも授けた。只だ兩者の異る所は、「タルムード」が比較的貴重なる勞作として、ただ口述によってのみ傳へられねばならぬことにあった。それは偶像を崇拝してゐた諸国民が、ユダヤ人を征服した場合に、タルムードが彼等に知られないが爲めである。のみならず又仮りに、神がタルムードを書に録することを欲するとしても、地球が其の書全部を載せる事が出来ぬからである。斯くして『タルムード』を神の如く崇めたユダヤ会堂の教義は、その自然の結果として、イスラエル民のために此の大労作を創造し、且つその保存に努力したるラウウィン階級を奇蹟的に稱揚する外はなかった。それ故にラウウィンは正に超人的尊崇の的となっているのみならず、本格的
崇拜の目標となっているのである。この事は次の斷篇もこれを證明している。

ラウウィンの言を實行せざる者は其罪死に當る。
ラウウィンの言が豫言者の言よりも一層美妙である事を銘記せねばならぬ。
ラウウィンの日常の談話は、『タルムード』全部よりも尊敬せられねばならぬ。

自分のラウウィシに反対し、これと爭論し、或は之に対して不平を洩らす者は、神の威厳に反抗し、これと争い、之に対して不平を洩らすものである。

ラウウィンの言は生ける神の言である。
ラウウィンに対する敬畏は神に対する敬畏である。

ラウウィンが、汝の右の手は左の手、左の手は右の手であると汝に言っても、彼の言に信を置かねばならぬ。(最後の二説はアイモンドと敎師ラシの言)

 かやうな言を述べる時、『タルムード』の著者等は、其良好なる道路から下る理由を有しなかった、實際「シネドリオン」と題する書に斯う記されている。即ち死したるラウウィン等は天上で特に選ばれたる人々を教へる使命を有している。また教師メナヘムが「天上でタルムードに関する重大なる問題が審議された度毎に、神はラウウィンと協議するが爲めに地上に降った。」と力説している。これに対して或はわれ等に斯う論難する者があらう。即ちタルムードの件には、その學識の蘊蓄を以って大いに其の榮名を轟かしたラウウ
イン等が同一の問題に関して同時に述べたが、互に矛盾している見解が数多載せられてある。若し互に矛盾しているならば、同時に皆正しい者であり得ない。されば此の場合如何にして誰が正しいかを決することが出来來ようと、これに対してまた教師メナヘムは次の如く「すべての時代、すべての世代のラウウィン等の総ての言は、假令われ等が互に矛盾している場合に於ても、豫言者の言と同じく神の言である。誰にてもラウウィンに反対し、之に爭論し或はこれに不平を洩らす者は、神と争ひ、神に向って不平を云ふ者である」との解答を与えている。此の教義は、恰もカトリック教会が只だ其の教主(ローマ法王)にのみ、それも只だ正確に規定せられたる場合に於てのみ認める如き超體無謬性を、すべての時代のラウウィン等にすべての場合に於て、しかも互に矛盾している時に於ても認めている。斯かる教義はタルムードのすべての註譯に述べられている。これは畢竟(ひっきょう/つまるところ)実際上に於て道德律の有らゆる牢固たる基礎を否定する事に歸省するものである。

 實際ギルレル派とシャンマイ派との間に異論がある。その論争はタルムードの中にも記述せられている。そしてユダヤ会堂の聖書も「双方の意見は神の言である。ギルレルの言も、シャンマイ派の言も神の言である」と宣べている。では、此の場合如何に爲すべきであらうか、その結論は只だ一つあるのみである。即ち「ラウウィン等のすべての言が神の言であるので、汝の心が實行の可能如何に応じて汝に示唆する所に従って行へ」と云ふのである。パリサイ派の理想に全然適合せる人々の行爲に対する無關心は左の規定によって一層基礎附けられる。即ち「罪を犯すことは、其れが秘かに行はれさへすれば許される。」と(以上シャーグ章。ギッデェシェン章。チェブト章。トカフォット。シュルレン章。リパメオット章。教師ラシ著イエバム書より)
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ローマ法王庁を根こそぎに破壊する時期が到来すると、隠れたるわれわれの手の指が、各國民を法王庁へとさし向けるであらう。そして各國民が其處へ殺到したら我々は、表面上法王の擁護者として登場して、流血の惨事を大きくしないやうに鎮靜する。この策謀によって法王の信認を得たる我々は、法王庁の最も奥の間までも入り込み、法王の権力を完全に覆へすまでは其所を去らぬであらう。(ユダヤ議定書十七章) (136p)✨